ナガは、インド北東部(ナガランド州、アッサム州、マニプル州、アルナチャルプラデシュ州)からビルマ(ミャンマー)北西部(サガイン管区)にかけて暮らす、先住民族です。四国と九州を足したほどの面積の山岳地帯に、推定人口300万人が暮らしています。
人種的にはモンゴロイドに属し、焼き畑と狩猟、精霊信仰などにより、古来から独自の文化を育んできました。かつて首狩りの風習をもっていたことでも知られていますが、19世紀初頭にアメリカン・バプティストの宣教団が入り、現在では人口の9割以上がキリスト教に帰依するといわれています。またナガ民族は、それぞれ異なる文化と言語をもつ30以上の大小エスニック・グループによって構成されています。
都市部で暮らす一部を除いて、人々はいまも1000〜3000m級の山中で焼き畑を営み暮らしています。先祖伝来の土地を大切にし、精霊信仰の影響をいまも色濃く残す彼らは、周辺から押し寄せる変化や圧力に抗い、インドやビルマとは異なる独自のアイデンティティを守る努力を続けています。

ナガ民族の居住地ナガランド(*註)は、現在インドとビルマに分割、併合されていることになっています。しかしナガの人びとの大多数は一貫してこれを認めず、いまなお抵抗を続けています。すでに60年以上続く、ナガ民族の自決権問題が、ナガランド問題です。
19世紀初頭まで、ナガの人びとは外部からの侵略を拒み、独自の社会を維持していました。植民地拡大をめざしてこの地に侵入したイギリス軍に対しても、銃を相手に彼らは槍や山刀で抵抗を続けました。結果的にはナガ民族の居住地の3分の1がイギリスの支配に組み込まれましたが、ナガ民族全体がイギリスの支配を受けることは最後までありませんでした。
また第二次世界大戦当時には、インド侵攻をめざした日本軍がインパール作戦を展開して、ナガ民族の居住地でイギリス軍と衝突。ナガの人びとに多くの犠牲を強いることになりました。
イギリスが植民地を放棄する際、ナガの人びとは独立国家として歩むことを求め、イギリス政府やインド人指導者たちと協議を繰り返しました。またインド独立の前日、1947年8月14日にはナガランドとして独立を宣言しましたが、国際的には完全に黙殺されてしまいました。
その後も住民投票で99%が独立を求めたり、インドの総選挙をボイコットするなど、平和的な手段で独立を求めるナガの人びとに対し、インドは1950年代半ばに大量の軍を派遣。大規模な軍事作戦で、彼らを弾圧しました。戦闘やそれに伴う飢餓、病気などで、20万人以上のナガの人びとが犠牲になったといわれています。ナガの人びともまた武装闘争を開始し、以後半世紀以上にわたる、泥沼の紛争が続いています。
(*註) インドの一州としての「ナガランド州」ではなく、ナガの全居住地こそが本来の「ナガランド」であると彼らは主張しています。これを区別するため、ナガランドを現地語でナガリム(Nagalim)と呼ぶ人びともいます。

1997年、インド政府はナガ民族の独立派武装組織との停戦に合意し、以後インド軍による大規模な軍事作戦は影を潜めました。しかし軍事制圧状態はいまも続いており、大きな町や村、主要な道路には治安部隊が駐屯し、巡回しています。
近年はビルマ軍によるナガの人びとへの弾圧も激しくなっており、多くの村が焼かれ、人々はジャングルでの避難生活を強いられています。
またナガ民族の間でも勢力争いが激化し、派閥抗争に市民が巻き込まれて犠牲者も出ています。
これまでナガランドの状況は、インド政府の情報管制によって、ほとんど知られることはありませんでした。近年ようやくインド政府が外国人の入域を認めるようになってきましたが、国際的にも、またインド国内でさえ、ナガランド問題はほとんど認知されていません。ビルマ側に暮らすナガの人びとについては、今なおまったくと言っていいほど情報が得られないのが実状です。
(文責/南風島
渉)

■ナガの人びとの国連への働きかけの歴史
ナガの人びとが国連や国際社会への働きかけをはじめたのは、独立運動の開始とほぼ同時期です。1947年8月14日にナガ民族評議会が独立を宣言したとき、宗主国であったイギリス、一日後に独立を控えていたインド、そして国連に対して書面で知らせました。
その後、1950年代にインド政府による弾圧がひどくなり、人権状況が悪化すると、ナガ民族評議会はいくども国連からの介入を得ようと試みました。1957年、1960年、1972年、1973年と、確認できるだけでも節目ごとにナガの人びとは国際社会に自らの苦境を知らせるため、国連事務総長に対して報告書や手紙を出し続けました。しかし、国家政府の連合体である国連ではナガの訴えは「インドの内政問題である」とされ、効果的な介入は得られませんでした。
■国連における「先住民族」としての活躍
1990年前後から、当時最大の武装勢力だったナガランド民族社会主義評議会(NSCN)や、ナガの人権団体であるナガ人権民族運動(NPMHR)が国連の人権機関、特に先住民作業部会において人権侵害の報告や、自決権の主張をはじめました。
この背景には、国連内での先住民族問題の認知、とくに人権委員会に「先住民作業部会」が設置(1982年)されたことがあります。また、1993年は「国際先住民年」とされ、国連が先住民族問題に本格的に取り組むきっかけとなりました。こうした国連での動きがきっかけで、ナガ民族だけでなく、他の多くのアジアの先住民族も国連に参加しはじめました。
■先住民族運動がナガ独立運動に与えた影響
国連における先住民族の権利の承認への流れと、先住民族問題に関する人権機関の設置は、半世紀近く国際社会から無視され続けてきたナガのひとびとに自らの主張を訴える場を提供しました。また、先住民族の権利の促進の流れは、ナガ民族の独立の主張が決して分離主義や過激派ではなく、正当な権利なのだという法的根拠を確立しました。
こうした国際法における先住民族の権利の確立のほか、国連における先住民族の活動は先住民族の伝統的な文化や言語、生活様式や精神世界の重要性も強調しています。これらの活動は、従来「劣った文化・言語をもつ」というレッテルを貼られていた先住民族の人々に大きな勇気を与え、自らの文化や言語の復興運動が各地で起こっています。ナガの民族組織の一部が「ナガランド」から「ナガリム」と名称を変更したのも、こうした国際的な動きの一つといえるのではないでしょうか。
(文責/木村真希子)
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